奉仕と奉真

感謝とは、必ず 結果として形にあらわれるものだ。
 
 
口先だけの感謝は、必ず見る人から見れば、直ぐにばれてしまうものだ。
 
 
前回書いた、目論見とも通じるのだが、下心がある感謝は、感謝アピールが半端ない。
 
 
SNSでもそうだが、必要以上に感謝アピールをする。
 
 
あたかも、『私、こんなに頑張りました』アピールです。
 
 
本当の真心の感謝とは、『陰徳を積む』と言って、自己アピールをしない陰の徳を積む所に、その人の本質が現れる。
 
 
例えば、自分が主催の催し物があるとします。
 
そんな時には、率先して下準備をして余念がない。周りから見れば確かにリーダーとしても、印象はいいかもしれない。
 
しかし、他の人が主催の時には、一切手伝わない。知らん顔するなら、まだ分かりやすいが、その様なタイプは、もっと賢い。愛想よく手伝わないのだ。
 
自分に能力がありながら、他人には、自分の能力を最大限に発揮しない。
 
 
これは、神から見たら最低の人間だとジャッチメントされる場合がある。
 
 
 
本来、真心や奉仕とは、無償の愛であり、そこに真さがなければならない。
 
 
 
 
陰、日向になり、いつも、気持ちよく、準備や片付けなど、お手伝いをして頂ける、地味な方こそ、愛に満ち溢れた素晴らしい魂の持ち主なんだ。
 
 
神様に捧げる賽銭は、本当の真心が態度に現れるものだから、よく観察してみていると実に面白い。
 
 
表面的に見れば、神社に参拝し、賽銭を上げる。実に信心深い人にも見えるだろうが、賽銭こそ、その人の感謝の本質が現れるものなんです。
 
 
過去の自分わ振り返りながら、この先の話を読んで見て欲しい。
 
 
賽銭は、寄付と違い記帳をしない。だから、誰が幾ら神様に奉納したのか記録されないのだ。だからこそ、その人の真心が現れるのだ。
 
 
寄付の場合は、記録で残る。
芸能人の寄付がそれである。
 
 
陰徳の寄付ならば、賽銭箱に1千万円奉納すれば良い。
 
では、何故そうしないのか❓
それは、私は神様に1千万円奉納しましたと言うアピールをする事で、影響力を手にしたいと言う秘めた目論見があるからだ。
 
 
だから、記帳が無い賽銭箱には、奉納しない。
 
 
よくあるのが、ツイッターやSNSで、◯◯を無料でプレゼントします。などのアピールです。
 
本当にプレゼントをしたいのでは無く、集客の為のエサをばら撒いているのが本質なのだ。
 
損をして、徳を取れと言うやつですね。
 
 
 
 
また、賽銭の仕方。
 
投げ銭をする人。
静かに丁寧に神に賽銭わ捧げる人。
お札がピン札で準備をしてお参りに来る人。
適当に、お財布の中から、今ある小銭を無作法に出して賽銭する人。
真剣に祈り、感謝を捧げる人。
お願い事しかしない人。
観光気分でついでに参拝する人。
 
 
 
この様に、様々な思いが、全ての細かな行動にて現れるのだ。
 
 
 
己修道は、少しでも神に近づける為に日々修道だと考えています。
 
 
 
秘めた思い、秘めた想念こそ、神様はご覧になっています。
 
 
 
その、想念に分相応のお陰を神から頂けるのである。
 
 
一円の種を蒔いたら、一円の実が成る。
 
 
100円の種を蒔いたら、100円の実が成る。
 
 
1円の種を蒔いて、1万円の実が成る事を神に祈るのは愚かである。
 
 
 
分相応の努力と精進が必要です。
 
 
 
表面的に薄っぺらい人間にはなりたくないものです。
 
 
 
己修道


 
 
 
そんな、魂を見抜ける様になる為には、自らが実践している人間でなければ見抜く力はついていかない。
 
 
やはり、日々、己修道です。 

己修道

宇宙意志を理解し、宇宙の法則を学び、己の魂、人間性を神に近づける事を目的とし、己の人生を通して修道していく事を目的とする。世の為人の為に己が何が出来るのかを謙虚に追求し己の魂の向上と天命を全うする。

0コメント

  • 1000 / 1000